1985年 .. 1986年 11月 30 日:

アスキーラボラトリーズ

アスキーは西和彦と塚本健一郎によって1977年に設立された。1979年、ビルゲーツと西はマイクロソフトの初めての海外出張所を日本に設立した。

アスキーラボラトリーズは吉崎武(彼は日本初のマイクロコンピューターマガジン“I/O”, “ASC II”, “Login” の初代編集長)と加畑将裕(サイキックラブ)と アスキー 西和彦(当時、アスキー副社長とマイクロソフト副社長。 アスキーは コンピューターアプリケーション 売り上げ:1000億円、デスクトップパブリッシング アプリケーション、コンピューターグラフィックス アプリケーション、スプレッドシート アプリケーション、ゲームなど)の投資でスタートした。プロジェクト費:8000万円。

1年間の将裕のサラリーは 500万円。


主な仕事は未来のコンピューターシステムのヒューマンインターフェースデザインの研究開発、脳波で動かすシステム、UFO,サイキック研究。

日本ではこのタイプの研究所は初めて。

数年後にソニーや日本政府が似た様な研究を始めた。


アスキーの本社は東京だったが、将裕の希望により研究所は彼のホームタウン札幌に設置した。


社長:吉崎武

研究所長 : 加畑将裕

研究員 : 5-6


主なコンピューターは LISA と MAC

すべての音のうるさい器械は換気調節付きのガラスケースの中に入れた。

脳波アンプ、生体アンプ、入出力制御装置は、すべて研究員で作製。

入出力装置は CPM DOS コンピューターで制御。

データ解析用FFT アナライザーは 2 チャンネル 15 bit 100 KHz

レーザーディスクと MIDIサウンドシステムを、脳波、生体情報、他の物理情報(温度、湿度、質量など)で制御するシステムを作製した。

12チャンネルの脳波と他の生体情報をリアルタイムにコンピューターモニターで表示するシステムをマウスとウインドウコントロールを使用したDOSコンピューターで製作。


















ある日、東京の吉崎さんが 世界初のアルファヴァージョン ウインドウズコンピューターを送ってきた。 マイクロソフト、アスキーとNECでの共同開発。 そのコンピュータをテストしてプログラミング コード ストラクチャーがMacとほとんど同じでびっくりした。このコンピューターの箱はTNT TV 映画 パイレッツオブシリコンバリー で見ることができる。アップルとマイクロソフトの歴史。

1999年6月20-27日、 1週間連続放送。


マイクロソフトウインドウズ ヴァージョン 1.0は、1985年11月20日発表された。

1985年11月22日、スカーリーはビルゲーツがMacテクノロジーをウインドウズで使っていいアグリメントにサインした、マイクロソフトが継続してMac製品を製作することを条件に。

1987年8月11日マイクロソフトは初めての独自のGUI OS ウインドウズ ヴァージョン1.01をリリース。これはほとんど使用できる様なものでなく大きな失望だった。

ヴァージョン2は、1987年12月9日。マイクロソフトはヴァージョン2.03を1988年1月にリリース。



1986年 12月1日 .. 1987年12月31日:

株式会社ハイテックラボジャパン

1986年、マイクロソフトが100%日本法人を設立することになり、アスキーの主な半数のメンバーがマイクロソフトジャパンに移動した。マイクロソフトジャパンの社長は古川享。彼はアスキーラボラトリーズを東京のアスキーの中で行っていた。

西さんはアスキーに残った。吉崎さんはハイテックラボジャパンを創設した。

アスキーラボラトリーズの研究員全員がハイテックラボジャパンに移動した。

マイクロソフトジャパンに移動するとアスキーラボラトリーズでの研究ができなくなるのでだれもマイクロソフトジャパンに移動しなかった。

1年間の将裕のサラリーは 550万円。



1988年 1月 : サイキックラブ

1988 年、将裕はサイキックラブを札幌で設立。



1989年 4月 : サイキックラブ ニューヨーク オフィイス

1989年 ニューヨーク アメリカに移動。



1991年 3月 12 : 株式会社サイキックラブ

1991 年に 株式会社サイキックラブ を ニューヨーク アメリカ で設立。




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アスキーラボラトリーズ と サイキックラブ : 1985 ..1991